会社員の賃金は通常、その企業の業績で決まる。会社が儲かっていれば賃金は上がり、逆に業績が悪化すれば下がる。これは企業経営の常識だろう。建設業界は価格競争が激しく、仮に無理して賃金アップを行って社員の士気を高めたとしても、必ずしも工事受注できる保証はない。昨年末、政府が打ち出した公共調達での賃上げ企業の優遇策は、年始めから建設業界に衝撃が走った。2月に制度の一部見直しが行われたものの、まだ火種は燻っている。賃上げ企業の優遇策を整理してみた。
大手は平均受給額3%増、中小は給与総額1・5%増
賃上げ企業を優遇する公共調達の措置は、政府の「新しい資本主義実現会議」が昨年11月にまとめた緊急提言に盛り込まれた。財務省はこの提言を受け、総合評価方式で賃上げ実施企業の加算点や技術点を上乗せする方針を固め、昨年12月17日付で各省庁に対応を要請する文書を送付した。この時点では、具体的な運用方針が公表されていなかったが、昨年末から運用方法の詳細を巡って危惧する声が一部の建設会社で上がっていった。
運用の詳細が公表されたのは年が明けてから。1月6日に国土交通省が正式に総合評価方式での新たな加点措置を公表。対象は総合評価方式を活用したすべての発注案件とし、一定水準の賃金引き上げで従業員と合意したことを示す「表明書」を提出した入札参加者を加点するとした。配点割合は加算点・技術点の合計の5%以上に設定。加点は対象工事の規模や点数配分にもよるが、1~4点になるという。例えば40点満点の場合、表明書提出による加点は3点(合計の約7%)となる。4月1日以降の契約案件に適用する方針が示された。
この運用措置で問題となったのが、賃上げの中身。発注者に提出する表明書は契約時点の事業年度単位か暦年単位で賃上げの目標値を記載する。賃上げの中身は、大企業なら1人当たりの平均受給額が前年度比3%増、中小企業なら給与総額の1・5%上回る額とした場合に加点する。
賃上げ目標を実際に達成できたかどうかは▽法人事業概況説明書▽税務申告の作成書類▽給与所得の源泉徴収票などの法定調書合計表-のいずれかを落札者から提出してもらい確かめる。未達成だった落札者の情報は財務省に集約し、同省から通知があった日から1年間に入札公告が行われる国の総合評価方式を活用した調達のすべてで減点する。減点は、表明書提出による加点割合よりも大きな割合で行う。例えば賃上げ表明で3点が加点される案件ではペナルティーとして4点を減点する。
拡がる不安と懸念の声、負のスパイラルへの危惧
新たな措置を受け、建設会社がまず懸念したのが賃上げの原資。賃上げ目標を設定し、発注者に表明書を提出すれば加点は受けられるが、それで必ず工事や業務が受注できる訳ではない。ある企業経営者は「賃上げという〝空手形〟を振り込むようなもの」と指摘。受注ができなければ目標の賃上げに達成しなくても減点措置は適用されないとされているが、1件でも加点措置の適用を受け受注すれば、目標の賃金アップは必ず実施しなくてはならない。賃上げができなければ厳しい減点措置もあり、その後は受注が難しくなり、負のスパイラルに陥る可能性もある。
ある地場建設業のトップは「総合評価方式の入り口でインセンティブを与えること自体が制度設計に馴染まない」と指摘。総合評価方式はもともと価格や技術力などを総合的に評価するもので、賃上げは技術力とは関係がないという。
ある地方自治体の発注者は「建設業界でいま求められているのは、協力会社などの下請けで働く職人たちの賃上げを含めた処遇改善。元請企業の社員の賃金を上げることで、そのしわ寄せが下請けにいくのではないか」と危惧する。中小企業を対象にした給与総額の1・5%アップも問題視する声が多い。中小建設会社の幹部は「給与総額では役員給与も含まれるため、役員だけ増額することも考えられる」という。
大手建設企業からも「2024年4月からの残業規制適用を踏まえ、各社が残業時間の削減を進めている。残業代なども含まれると、3%アップは難しい」「ここ数年業績が好調だったので、賃上げを進めてきた。急にさらに上げろと言われても難しい」「民間工事が売上高の8割を占めており、残りの2割の公共工事のために賃上げするのはどうか」など、さまざまな意見が上げられた。
基本給や所定内賃金、継続勤務従業員の平均賃金など運用を見直し
建設業界からこうした不満と不安な声が漏れる中で、事態の収拾に動いたのが、自民党の「公共工事品質確保に関する議員連盟」(品確議連、会長・根本匠衆院議員)だ。大手や中小の建設業団体の声を受け止め、幹事長を務める佐藤信秋参議院議員を中心に財務、国土交通両省と折衝し、運用規定の見直しに動き出した。
政府はこうした意見を踏まえ、2月8日に賃上げ企業の総合評価方式での加点制度の運用見直しを公表。賞与や時間外手当などを含む給与総額や総人件費を加点基準にしている賃上げ実績の評価方法を拡充。新たに「基本給あるいは所定内賃金、継続勤務従業員の平均賃金」を加え、各社の経営状況などに応じ柔軟に選択できるようにした(表1)。
具体的には、当初の財務省通達に加え、企業各社の実情を踏まえ継続雇用している従業員だけの基本給や所定内賃金などで評価することも可能にした。中小企業の評価方法についても、実情に応じて当初の総人件費だけでなく、1人当たりの平均給与額で評価できるようにした。賃上げ方法の選択肢が増え、企業の負担は大幅に改善されたと言えるだろう(表2)。
賃上げ加点に関する参入項目の例(佐藤信秋参議院議員事務所が作成)
大企業 | 中小企業 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
① | ② | ③ | ④ | ① | ② | ③ | ④ | ⑤ | |
基本給 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
定期昇給 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
所定内手当 | 〇 | 〇 | 〇 | × | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | × |
賞与 | 〇 | 〇 | × | × | 〇 | 〇 | 〇 | × | × |
超過勤務 | 〇 | 〇 | × | × | 〇 | 〇 | 〇 | × | × |
一時手当 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
新入社員 | 〇 | × | × | × | 〇 | × | × | × | × |
アルバイト | 〇 | × | × | × | 〇 | × | × | × | × |
退職社員 | 〇 | × | × | × | 〇 | × | × | × | × |
継続社員 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 |
1人当たり平均給与 | 〇 | 〇 | 〇 | 〇 | × | × | 〇 | 〇 | 〇 |
人件費総額 | × | × | × | × | 〇 | 〇 | × | × | × |
*①が12月17日の財務大臣通知の内容
*②~⑤は2月8日に見直された組み合わせの一例
*②は賃上げ減税で用いられている
*大企業の春闘の場合は一時手当抜きが相当する(③または④)
*このほか、1人当たり平均給与を出す場合、年度末あるいは期末人員で割り切れば良いのか?
継続社員限定の場合は年度あるいは暦年を通した人員とその賃金だけを取り出して算定するのか?
子会社がある場合、連結か、単体かなどの疑問も残る。
労務費単価や一般管理費率などを引き上げ、環境整備が進む
今回の賃上げ企業の優遇措置は、岸田文雄政権が掲げる「成長と分配」の実現に向けた看板施策の一つと言われる。ただ、財務省主導で運用が進み、拙速感は否めない。運用の見直しで、賃上げの方法や条件が拡充されたが、業界内からは依然として危惧する声もある。
大手建設会社の幹部は「個人所得を上げ、景気の好循環を進めたいという政府の考えは理解できる。ただ、公共工事・業務を請け負う業界にとって、唐突感があり、なぜ我々だけこうした縛りを強く受けるのか分からない」という。
ある地方建設会社のトップは「加点となる3%~1・5%以上という賃上げ幅は変わっておらず、経営に与える負担の大きさは実質的に変わらない」と指摘。その上で「公共工事量の安定的な確保や公共工事設計労務単価の引き上げ、一般管理費率の見直しなども必要だ」という。
国土交通省は2月18日、公共事業の積算に用いる新しい公共工事設計労務単価と設計業務委託等技術者単価を発表。労務単価は全国・全職種の単純平均で2・5%、技術者単価は全職種の単純平均で3・2%引き上げた。日額は全職種の加重平均で2万1084円となり、最高値を更新。法定福利費相当額の反映など算出手法を大幅変更した2013年度以降、10年連続の引き上げとなった。一方、公共土木工事の予定価格や低入札価格調査基準価格の算定に用いる一般管理費等率を引き上げた。新たな労務単価、一般管理費率は3月から適用され、賃上げ企業の優遇策を進めるための環境整備を着実に進めている。
これらの措置で予定価格は確かに上昇する。ただ、その恩恵を受けられるのは受注企業だけで、それも適正な価格で受注できた場合に限る。さらに、賃上げ企業の優遇措置は次年度以降も継続される見通しで、企業は毎年賃上げをしなければ加点措置を受けられない。技術力を評価し、品質を担保する仕組みとして導入された総合評価方式は今後、当初の導入目的からはずれ、財務状況が良く、賃上げしても体力のある企業に有利に働く可能性が高い。技術力や品質といったものづくりの視点とは馴染まない今回の措置が、建設業界の将来にどんな影響を与えるのか、しっかりと注目する必要がある。
執筆者
日刊建設工業新聞社
常務取締役編集兼メディア出版担当
坂川 博志 氏
1963年生まれ。法政大社会学部卒。日刊建設工業新聞社入社。記者としてゼネコンや業界団体、国土交通省などを担当し、2009年に編集局長、2011年取締役編集兼メディア出版担当、2016年取締役名古屋支社長、2020年5月から現職。著書に「建設業はなぜISOが必要なのか」(共著)、「公共工事品確法と総合評価方式」(同)などがある。山口県出身。