1.はじめに
昨今、人的資本という言葉が注目されるようになりました。比較的新しい言葉である為、研究機関等がそれぞれ異なる説明をしており、明確に定まった定義はない新しい概念です。経済産業省では人的資本経営を「人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」としています。人的資本開示については欧米が先進していますが、日本でも昨年、大きな人的資本の情報開示に関する指針が2つ示されました。
すぐに直接的な影響があるのは大企業ですが、中小企業でも今後避けて通れない考え方であり、特に深刻な人材不足の問題を抱える建設業においては、今から取り組むことで人材戦略に有利に働くことが予想されます。今回は人的資本について、基礎となる考え方や求められる開示についてまとめたいと思います。
2.人的資本の考え方
まずは人的資本という言葉の意味を確認しておきたいと思います。似た言葉として、経営資源である「ヒト、モノ、カネ」の「ヒト」を指した「人的資源」という言葉があります。人的資源という言葉は、「ヒト」に係る人件費をそのまま費用と捉えて労働力がその場で消費されていくと考える向きが強い言葉です。
一方、今回見ていく人的資本という言葉は、「ヒト」に係る人件費を「投資対象に対する投資」と捉え、先行投資をしたうえで、将来の企業価値向上によってリターンを得ようと考えます。
文字通り、ヒトを競争力の源泉である資本と考え、それを企業が適切にマネジメントして企業価値を向上させるというのが人的資本経営の目的です。
3.日本における人的資本開示の動き
人的資本にまつわる動きとして、昨年度は「人的資本可視化指針」の公表や、「企業内容等の開示に関する内閣府令」の改正、「女性活躍推進法」の改正がありました。これによって上場企業は、女性管理職比率、男性の育児休暇取得率、男女の賃金格差等の数値に加えて、「人材の多様性の確保を含む人材の育成に関する方針及び社内環境整備に関する方針」等の開示が求められることになりました。
上記が示されたことは欧米に後れを取っている日本の人的資本の情報開示において、大きな1歩といえるのではないでしょうか。こうした世の中の流れは大きく以下の2つの動機により進んできました。
まず1つ目は、ESG投資への関心の高まりです。欧米ではESG(環境・社会・企業統治)に関する社会的意識が高まり、投資の世界においてもESGに配慮し持続可能な発展を目指す企業に投資をするという投資家が増加しています。日本は欧米から遅れはとっているものの、この視点が浸透し始めていることは間違いありません。
そして2つ目は労働者からの要求です。労働人口が減少していく中、労働者たち、特に若年層は給与面だけでなく就職先の労働環境を知ることに高い関心を示しています。労働環境を改善し、その情報を開示する機運が高まっています。
中小企業において、1つ目のESG投資については、少なくとも近々で直接的な影響はないと考える企業も多いかもしれません。しかし、2つ目については影響がある企業も多いはずです。今後は開示義務がないからといって何の情報開示にも取り組まないことは労働環境の改善に意識が低いという印象を与え、人材採用等の場面において不利になる可能性があります。建設業においては2024年4月より時間外労働の上限規制が適用されることにより、現状よりも労働環境が改善されると考えられていますが、それだけにとどまらない労働環境の改善についても取り組む必要に迫られるでしょう。
4.中小企業の求められる情報開示
ここからは、人的資本開示の内、中小企業にも大きく関係するものを見ていきます。具体的には、中小企業に現在義務化されている事項である、女性活躍推進法に基づく行動計画の策定・情報公表について整理します。ここでは101人以上300人以下の企業に要求されている事項をご紹介します。
一般事業主行動計画の策定・届出
「一般事業主行動計画」とは、企業が自社の女性活躍に関する状況把握と課題分析を行い、それを踏まえた行動計画を策定するものです。以下の項目について自社の状況を把握した上で課題への取り組み内容を決定、社内通知と外部公表を行い、都道府県労働局に届出を行います。またその後の取組内容の効果測定も行っていく必要があります。
男女の平均継続勤務年数の差異
管理職に占める女性労働者の割合
労働者の各月ごとの平均残業時間数等の労働時間の状況
女性の活躍に関する情報公表
以下の項目から1項目以上選択し、求職者等が簡単に閲覧できるように情報公開することが求められます。
① 女性労働者に対する 職業生活に関する機会の提供 |
② 職業生活と家庭生活との 両立に資する雇用環境の整備 |
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※「(区)」の表示のある項目は、雇用管理区分ごとに公表を行うことが必要です。
※「(派)」の表示のある項目は、労働者派遣の役務の提供を受ける場合には、派遣労働者を含めて公表を行うことが必要です。
5.建設業界の情報開示例
建設業界の開示の事例として、従業員数が100人以下でありながら、男女の賃金格差等の情報公表を行った例をご紹介したいと思います。この企業では開示によって社内風土が変化し、売上の伸長にも寄与したといいます。このような取り組みは簡単なことではなく、短期的にはコストや工数がかかってしまいますが、長期的には会社の成長につなげることができているようです。人的資本への投資による長期的な企業価値の向上を果たした、という点で、まさにESG経営であるといえます。
上記の事例紹介にもありますが、社内の人材だけでは難しいこともありますので社労士等の専門家に相談をするというのも有益です。
6.サステナブルファイナンス
第3項で触れたESGに関連し、ESG投資に関わる論点の一つであるサステナブルファイナンスもみておきたいと思います。
サステナブルファイナンスはこれからの資金調達手段として理解しておきたい概念の一つです。全国銀行協会の定義では「環境(E)・社会(S)、ガバナンス(G)課題の解決を目指して、様々な配慮を織り込んだ投融資(ESG投資・ESG金融)、債券発行、その他様々な幅広い金融サービスを含む広い概念」とされています。こちらについても現在は大企業を中心に金融商品が開発されていますが、サステナビリティ・リンク・ローン(CO₂などの削減目標を設定し、目標を達成できた場合は金利が有利となる借入)等は中小企業に向けた金融商品も徐々に増えてきています。人的資本経営に取り組んでいることで、資金繰りにも有利に働く可能性があるということをぜひ知っていただきたいと思います。
7.おわりに
今回は人的資本の動向と中小企業に対する影響をご紹介しました。深刻な人材不足を抱え、それに加えて、元々女性比率が少ない建設業においてこのトレンドは非常に厳しいと感じられるかもしれません。しかし、今後は中小企業にさらに大きな影響が出てくる可能性が高いと考えられるため、影響が少ない今のうちから少しずつ取り組んでおくことをおすすめします。
北海道大学経済学部卒業。公認会計士(日米)・税理士。公認会計士試験合格後、新日本有限責任監査法人監査部門にて、建設業、製造業、小売業、金融業、情報サービス産業等の上場会社を中心とした法定監査に従事。また、同法人公開業務部門にて株式公開準備会社を中心としたクライアントに対する、IPO支援、内部統制支援(J-SOX)、M&A関連支援、デューデリジェンスや短期調査等のFAS業務等の案件に数多く従事。2008年4月、27歳の時に汐留パートナーズグループを設立。税理士としてグループの税務業務を統括する。