マイナス金利の導入
2016年1月より、日本銀行がマイナス金利政策を導入したことは記憶に新しいことかと思います。
これは金融機関が保有する日本銀行当座預金に0.1%のマイナス金利を適用するというものです。
これにより、国債の利回りや円LIBOR等でマイナス金利が観察されています。
このことは単なる金融政策に留まらず、会計業界に対しても大きなインパクトを持ちます。
というのも、会計基準の中には、実務的に国債の利回り等を何らかの割引率の指標として参照しているケースが多いためです。
ところが、従来の会計基準では、金利がマイナスになるという事態が十分想定されていなかったものと思われ、ASBJ(企業会計基準委員会)は、今年の3月23日に、マイナス金利に対する当面の実務的対応をまとめた議事録「マイナス金利に関する会計上の論点への対応について」を公表しました。
これによると実務的な対応として、割引率にそのままマイナス金利を適用する方法と、0%を下限とする方法のいずれもが選択可能という結論になっています。
このような2通りの対応が認められたのは、どちらの方法にもそれなりの合理性が認められたためだと考えられます。
割引率とは何か?
会計基準において割引率を用いるものとしては、主に①退職給付会計、②減損損失、③資産除去債務といったものがあります。
今回は建設業界とも関連性の深い資産除去債務を例にとって考えてみたいと思います。
資産除去債務とは、固定資産を取得した場合等において、将来その固定資産を廃棄する際に義務付けられている除去費用を貸借対照表に反映させる処理です。
ただし、将来支出が見込まれている除去費用の総額をそのまま載せるのではなく、割引率によって割り引いた正味の金額を貸借対照表に計上することとされています。
会計処理においてこうした「割り引く」という行為はなぜ行われるのでしょうか?
それは貸借対照表に載せる金額については、そこに「時間の流れ」の概念を持ち込み、現時点の価値に引き直そうとする発想に基づくものです。
それでは会計がこの「時間の流れ」を意識するのは、どのような場合でしょうか?
それは将来において相当程度確実に発生する支出であるものの、実際にその支出が行われるのは長期間が経過してからといったタイプの取引になります。
退職金はその典型的なタイプの支出になります。
資産除去債務も、固定資産を入手した時点と、将来廃棄されるまでの時点の間には、かなりの長い時間があります。
ここで会計上は、将来と現在の間の「時間の流れ」を意識するのです。
割引率にはどのようなものが使われるのか?
割引率については、会計基準ごとに、どのようなものを使えば良いのかという指標が示されています。
このうち資産除去債務については、「無リスクの割引率」を用いることと規定されています。
それではこの「無リスクの割引率」とは具体的には何を意味するのでしょうか?
実務的には、それは国債利回り等が用いられるケースが多いと言われています。
それではこの「無リスクの割引率」(リスクフリーレート)の意味するところは、どのようなものなのでしょうか?
筆者の考えでは、それは個別的な事情によるリスクは度外視して、純粋に時間の流れのみを割引率として抽出したいという要請に基づくものだと考えられます。
例えば、誰かにお金を貸すときに設定する利率は、常に相手から本当にお金が返ってくるのかというリスクを念頭に置いて、利率が決定されます。
サラ金や闇金融の利率が高いのは、そもそもそのような利用者は与信能力に乏しく、貸したお金が返ってくる可能性が極めて低いと考えられているからです。
しかし、資産除去債務や退職給付会計等では、そうした個別的な事情による信用の度合いを考慮する必要はないと考えられるため、こうした個別的な事情を取り除いて、限りなく、純粋に時間が経過したことだけによる影響度合いだけを反映させたいということになります。
その意味で、国債は一応は安全資産と見なされており、広く一般に購買されているという事実を考え合わせると、この要請に最も応えてくれそうな指標ということになります。
マイナス金利が意味するもの
ところが前述の通りに、日銀のマイナス金利政策の導入をきっかけとして、国債の利回りにマイナス金利が観察されるようになりました。
これは国債を保有していることでその価値が目減りしてしまうことを意味します。
従来は「時間が流れること」ということは価値を生むものだと考えられてきましたが、今後は「時間が流れること」でかえって価値が低下してしまう場合があり得るのだ、ということを指し示しています。
こうしたパラダイムシフトにより、会計基準では一時的な混乱が生じたと考えることができます。
将来に不可避的に支出する固定資産の除去費用は、その除去費用がすでに固定しているにも関わらず、これをマイナスの割引率で計算すると、年を追うごとに除去費用が目減りしていってしまうことになります。
具体的には、10年後に100円の支出が確実視されているが、それをマイナスの割引率で割り引かれた結果、当期末の貸借対照表には120円として表示されてしまうことになります。
この120円という情報は正しくもあり、正しくもありません。
というのも確かに将来支出予定の100円についてマイナス金利が続いたと想定された場合の現在価値は120円となり、そのことは確かに当期末における「正味の価値」を忠実に表現しているといえます。
しかしながら、他方では実際には100円しか支出しないと分かっているものを、あえて120円と表現するのは矛盾しているのではないかという考え方もあります。
どちらが正しいと考えるのかは、財務諸表の利用者がどのような情報を必要とするのかという観点によるものと思われます。
これが先述のASBJによる、どちらでも適用可とする暫定方針を打ち出した理由にあると思われます。
まとめ
以上のように考えると、マイナス金利の影響を現在の正味価値として表現するのか、それとも将来固定したキャッシュフローという情報を優先させるのか、といった基本的な態度についてさえ、現行の会計基準には確固たる見識があるというわけではないことが分かります。
したがって、どちらの処理を採用するのかは企業側に委ねられているのだと解されます。
そのため企業側としては、それぞれの処理の意味を理解し、自社にとってどちらがより適切な方法なのかを検討する必要があるのではないかと思われます。
北海道大学経済学部卒業。公認会計士(日米)・税理士。公認会計士試験合格後、新日本有限責任監査法人監査部門にて、建設業、製造業、小売業、金融業、情報サービス産業等の上場会社を中心とした法定監査に従事。また、同法人公開業務部門にて株式公開準備会社を中心としたクライアントに対する、IPO支援、内部統制支援(J-SOX)、M&A関連支援、デューデリジェンスや短期調査等のFAS業務等の案件に数多く従事。2008年4月、27歳の時に汐留パートナーズグループを設立。税理士としてグループの税務業務を統括する。